【キングダム】李牧の最後を史実から考察



「キングダム」の登場人物の中でも知将として存在感を放っている李牧。

もちろん他のキャラクターと同様に歴史上にモデルとなる人物がいますが、「キングダム」作中ではいったいどんな最期を遂げるのでしょうか。

考察していきたいと思います。

歴史上の李牧

 

生涯

李牧(?年生~紀元前229年没)

「キングダム」と同様に、中国春秋戦国時代の趙国の武将です。

「史記」「廉頗藺相如列伝」という2つの歴史書で、司馬遷は李牧の功績から、彼を「守戦の名将」と位置付けています。

どうして彼がこのように位置づけされたのかについては、以下の歴史上のエピソードからうかがい知ることが出来るでしょう。

 

元北方の長官

元々李牧は趙の北方、代の雁門に駐屯する国境軍の長官でした。

「国境」軍という名前からわかる通り、ここを破られてしまうと趙国自体が危険にさらされます。

つまり、国境で李牧は匈奴に対して備える重大な任務を任されていたということになります。

 

国境防衛のために独自の地方軍政を許されていた李牧は、警戒を密にした上、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していました。

匈奴の執拗な攻撃に対しては、反撃するのではなく、徹底的な防衛、篭城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していました。

兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命してまでしていたと言われています。

 

しかし、勇猛果敢とは真逆の李牧のやり方は、当然戦国時代には快く思われず、敵の匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなってしまい、主君の趙王すら李牧のやり方を不満に思い、李牧を叱責します。

しかし、その後も李牧はこのやり方を改めなかったため、とうとうこの任を解かれてしまいます

 

その後、李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出ましたが、匈奴を倒すどころか、かえって被害が増大した上に、国境は侵されてしまいます。

ここにきて、ようやく趙王は過ちに気付き、李牧に再任を請いましたが、なんと李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞しました。

 

それでも、王は将軍に起用したため、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを承諾させ、李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになりました。

「キングダム」の李牧同様、歴史上の李牧も高い先見性と知性を持っていた武将だったのですね!

 

匈奴の鎮圧とその後

ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させます。

これに味をしめた匈奴の単于が大軍を率いてきますが、実は李牧は伏兵を置いており、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討ちました。

結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わります。

 

その後、さらに代の北にいた東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなりました。

※東胡と林胡は匈奴の1種です。

趙の国境の防衛を無事に果たした李牧は紀元前243年、悼襄王の命で燕を討ち、武遂や方城などに侵攻しました。

 

弱体化する趙を守り、武安君へ

藺相如や趙奢といった将軍を亡くしていた趙は、紀元前260年に長平の戦い(「キングダム」でも趙人が秦を恨む原因となった戦いです)で秦に大敗し、衰亡の一途をたどっていました。

また、さらに時期の悪いことに紀元前245年に廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前234年には趙将・扈輒の率いる軍勢が武遂で敗れ、10万人もの犠牲が出てしまいます。

まさに国が大きく傾いていた頃に、前述の通り北辺での対匈奴戦での功績を認められた李牧は同年、幽繆王の命により大将軍に任じられ、中央に召還されることとなります。

 

李牧は紀元前233年に趙の赤麗および宜安を攻めたてきた秦軍と対峙し、破り退けることに成功します。

実はこの戦闘の際、宜安を攻めた秦の武将は、「キングダム」で残虐非道な武将として描かれている桓騎のモデルとなった将、桓齮であり、李牧は彼を討伐、あるいは敗走させています。

そのうち、「キングダム」でもこの戦闘は描かれるでしょう。

この功績により李牧は武安という高い地位を得ることになります。

 

そして、紀元前232年に秦が趙の番吾を攻めた際にも、李牧は秦軍を再び撃破した上、秦から韓、魏の国境まで領土を奪還しました。

ちなみに、当時秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみであり、政や信にとって李牧はとても厄介な存在です。

こうした経緯から、「キングダム」でも印象深く描かれているのでしょう。

歴史上の李牧の最後と趙の滅亡

趙を立て直す柱ともなり得そうな勢いの李牧ですが、こんなに強力な武将にも最期がやってきます。

紀元前229年、秦の王翦、楊端和、羌瘣が大軍を以て趙を攻めました。

 

まず王翦が井陘(現在の河北省)を降したため、趙は李牧と司馬尚(司馬卬の父)に応戦させます。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策しました。

まんまと買収されてしまった郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言します。

高い功績を上げ続けたことで趙の軍事を掌握し、功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王は李牧を疑い、郭開の言を聞き入れ、李牧を更迭しようとしました。

しかし、李牧は王命を拒んだため、幽繆王は彼を密かに捕らえ、まさかの誅殺、李牧と共に戦っていた司馬尚も解任・更迭されてしまいました。

 

有能で実績もあった李牧を亡き者にした後、趙がどうなってしまうかは我々にも簡単に予想できますよね。

趙軍は李牧と司馬尚の後任として趙葱と斉将の顔聚に率いられましたが、彼らは間もなく王翦に大敗し、大勢の趙兵が殺害されました。

邯鄲は秦軍によって陥落、幽繆王も捕らえられ、趙はついに滅亡してしまいました(紀元前228年)。

 

「趙策四」によると、趙が滅んだのは李牧が殺害されて3ヵ月後(あるいは5か月後)だったといわれています。

歴史上の李牧は、聡明であっために、兵を大事にした戦い方をすれば「臆病者」と呼ばれ、実績を挙げれば君主に疎まれて暗殺されてしまうという、なんとも可哀想な武将ですよね。

それにしても、廉頗の出奔の件といい、李牧暗殺の件といい、趙国の王には代々愚かな人間が就くことが多いのかもしれませんね。

「キングダム」での李牧の最期は

前述の通り、李牧の死については、趙国の内情や、秦軍の作戦とその思惑にいたるまで、史実に細かく残されています。

このことから私はおそらく、ほとんど史実通りの最期を迎えることになるのではないかと予想しています。

ストーリー序盤から登場し、知将として様々な場面で存在感を放っていた武将であるだけに、あまりに不遇な最期で可哀想ですが、「キングダム」はある程度史実を尊重して書かれているため、この最期が描かれなかったり、変えられたりする可能性は、残念ながら低いのではないかと思います。

まとめ

以上、史実を基に李牧の最期について考察してみました。

いかがでしたか?

敵に打ち取られるのではなく、味方であるはずの趙王の命令によって命を落とすであろう李牧。

李牧のファンは彼の最期に涙をこらえられないかもしれませんね。

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